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「本能寺の変」の謎を解く! 〜明智光秀謀反の理由、黒幕説、信長の遺体の行方を追う〜

 

史上最大の裏切り「本能寺の変」とは

 

天正10年(1582)6月2日早朝、洛中で大事件が起きた。

明智光秀の大軍が四条通西洞院にあった本能寺を取り囲み、

わずかな家来とともに宿泊していた織田信長を討ってしまったのである。

この重大事件のあらましを見ておこう。

信長が西国出陣のために上洛したのは5月29日である。

安土城(本丸・二の丸)の留守衆を定めてから上洛の途についた。

付き従うのは小姓衆わずか2,30人ばかりだった。

信長はこれが最後の上洛になるとはつゆ知らなかった。

折からの雨のなか、午後4時頃、信長は入京して本能寺に入った。

 

翌6月1日、本能寺には太政大臣の近衛前久父子をはじめ、

信長に拝謁を希望する公家衆40数人が列をなす賑わいだった。

その中には、正親町天皇の勅使と東宮誠仁親王の使者もいた。

 

信長は上機嫌で、公家衆に対して安土から運び込んだ

自慢の茶道具の名物を拝観させた。

 

また、武田勝頼を滅ぼした甲州陣の様子を物語るとともに、

「4日に西国に出陣するが、いくさは造作もないことだ」と豪語している。

信長はすでに毛利氏も長宗我部氏も眼中になかった。

 

その頃、光秀は安土での徳川家康接待役から、

中国出陣を信長より命じられて坂本城に一度戻り、

さらに、もう一つの居城である丹波亀山に移っていた。

 

丹波衆を動員するためである。

そして27日、光秀は愛宕山に登る。

 

戦勝祈願のためである。

まず軍神の勝軍地蔵に参拝し、

2,3度くじ取りをした。

 

翌28日、光秀の友人の住職がいる西坊威徳院で、

百韻連歌を催す。

これも戦勝祈願の一種である。

光秀の詠んだ一句が有名だ。

 

「ときは今 あめが下知る 五月哉」

 

「とき」は光秀の出身である土岐氏と時機の「時」を掛けてあり、

「あめが下」は天下、「知る」は統治するという意味だとされるが、

ひとつの解釈にすぎない。

 

下山した光秀は6月1日夜、

明智秀満や斉藤利三など4人の家老と謀議し、

ついに「信長を討ち果たし、天下の主となるべき出陣」を取り決めた。

 

光秀は1万3千の軍勢を率いて亀山城を発した。

老の坂を超えたのち、摂津方面に進むはずが、

軍勢は京へ向かった。

 

兵士たちが疑わないように、

入京している家康を討つためだと触れを出した。

 

桂川を渡り、七条口から洛中に入った明智光秀を

分進しながら北上し、本能寺をめざした。

ときに6月2日朝6時頃だった。

 

信長は外の騒ぎで目を覚まし、

「こえは謀反か。いかなる者の企てぞ」とたずねると、

小姓の森蘭丸が「明智の手の者です」と答えた。

 

「是非に及ばす」とつぶやいた信長は

最後の一戦に臨んだが、負傷し、

ほどなく信長はこの世の人ではなくなった。

 

 

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